夏の修学旅行

第一章

一.

(やっと東京の地を踏むことができるのね…………)
 仁科奈津は心を弾ませていた。
 奈津は、地方の女子校の日本史教師をしている。ようやく二十五歳になったばかりであった。
 本来、奈津は今回の東京への三泊四日の修学旅行には同行しないはずであったが、同僚教師が急病で倒れたために急遽参加することになったのである。
 実は東京に行くのは、奈津にとり初めての経験であった。
 旧家で育ち、大学も地方の国立大学で学んだ奈津にとり、東京はまだ見ぬ憧れの地であった。
(東京ってどんなところかしら…………)
 集合場所となっている駅構内の広場への道を急ぎながら、この若い女教師は興奮を抑えることができない。
 地方の中心駅らしく重厚な建物の駅舎の中を奈津は早足で歩いていく。息が弾み、黒い光沢を帯びた豊かな黒髪が背中で揺れた。
(まるで私が生徒のようね……。しっかりしないと……。あたしのバカ)
 やがて遠めに集まっている生徒達が見えてきた。生徒たちのふざけあう声が反響する。女子校生の若々しく弾む声である。
 奈津は気を引き締めるかのように自分の頭を叩いた。

 東京行きの新幹線の中では、クラスでも元気のいい生徒達を中心に、生徒達は何人かでトランプの輪を作ったり、思い思いに動いている。中には不良っぽい生徒もいたが、生徒たちにとっても旅行はうれしいのであろう。当然というべきか、座席で読書をしている生徒はほとんどいない。生徒達はすでに子供ではないので、奈津を含めた引率の教師達は、時折、羽目をはずした生徒を注意するぐらいで、あまり干渉しない。ある教師は座席でつかの間の休息をとり、ある教師は座席で書類仕事をしていた。
 すでに梅雨時に入っており、新幹線の窓を雨粒が当っている。
 奈津は始めて日本の首都を訪れるという興奮を抑えようとして、ガイドブックを手にした。つい楽しみにしているお台場などのページを見てしまう。それを隣に座っていた同僚教師の清水麻奈美に指摘される。
「なっちゃん、また同じページを見ているわね。そんなに東京が珍しいのかしらね」
 麻奈美は笑いながら突っ込みを入れながらも、その目はまるで姉が妹を見守るかのごとく優しい光を放っている。今年三十歳になる化学教師はまるで化粧というものをしていない。麻奈美は、奈津と同じ地方の出身とはいえ、県ではトップクラスの進学校を卒業し、東京の名門大学の理学部を卒業している。大学卒業後は化学メーカーで研究者をしていたが、奈津が教師になる二年前に、教職の道を歩み始めたという変り種であった。
 職員室の噂では、麻奈美には男性経験が全くないとのことであった。ぼさぼさ頭、すっぴん顔、そして毎日、代わり映えのしない白衣をまとっているのである。
(清水先生もきちんとお化粧をすればもてるのに……)
 奈津は、端正な顔をした先輩教師の顔を見ながら思った。
 やがて電車が川を渡って東京に入ると、奈津は自分がいつの間にかビル群の中に踏み入れていることを感じた。ところどころ高層ビルも見える。東京に行ったことのない田舎の才媛にはビルの密集度が信じられなかった。
(これが、東京なんだ)
 奈津は大きく目を見開き、息を吐いた

二.

 東京での初日は奈津にとり、あっという間に過ぎ去った。東京駅周辺で昼食を取ってから、都内各所を観光バスで回ったのであるが、奈津は生徒を引率するという立場を忘れて、自分もかなり喜んでいた。彼女はもともと素直になんでも感動するたちである。
(ほ、本当に東京ってすごいわね……。それに、きれいな女の人がいっぱいいる)
 東京の女性は颯爽として街を歩いているように思えた。服装のセンス、化粧のしかた……。最初は単純に喜んでいたのであったが、地方出身の自分と見比べて、なんて違うのかと奈津はため息を吐いた。食事の席でもつい愚痴を吐いた。
「やはり田舎の者の私には、東京は似合わないわね」
「そんなことないわよ。仁科先生もだいぶおきれいよ。東京の女の子にも負けていないよ」
 夕食で隣の席に座った麻奈美先生が奈津の愚痴を引き取った。この先輩教師は、社交辞令を言うタイプではない。どちらかといえば、思っていることをオブラートに包まずに言ってしまうたちである。そのため、年長の教師からは煙たがられることもあったが、後輩の奈津にとっては、頼りになる先輩であった。
 その先輩が誉めてくれたことで、奈津は生徒の手前も忘れて赤面した。
 東京での宿は、修学旅行生を多く引き受けている都心の古ぼけた鉄筋コンクリート製のホテルであった。
夕食を終わった生徒達は入浴を済ますと、残りは自由時間である。実は教師達にとっても東京の夜は楽しみにしていた。特に、男性教師たちは新宿、渋谷、六本木など華やかな夜の世界につかのまでも息抜きをしたいと考えている。女性教師たちにとっても遅くまで開いている東京のデパートを散策することは楽しみである。

「じゃあ、悪いけど、仁科先生、よろしくね」
 教師連中は一番年少の美教師を残して、夜の街へと出かけて行った。奈津が頼みとする先輩の麻奈美も「おみやげ買わなくちゃね」と言いながら、女性教師同士でデパート街へと出かけて行った。ふだんは何かと麻奈美を避ける同僚教師たちも、東京の大学を卒業して東京に詳しいこの化学教師のことを道案内として頼りに思っているようである。
 後には、学年主任をしている清川という五十年配の男と、清川と同年輩である木村という地学教師が残された。
 奈津は、先輩教師たちから生徒たちが夜遊びに出かけないように見回りをするように言いつけられていた。
 もう25歳にもなるのに、良家のお嬢様として育てられたせいか、この美しい日本史教師は自己主張が苦手であった。つい他人の言いなりになってしまうのである。
「仁科先生、ご苦労さん」
 学年主任の清川がふらふらと現れた。
 そういう奈津の性格を見透かしているのか、清川はホテルのロビーで待機している奈津のところにやってきて、自分の部屋で軽くビールでも飲まないかと誘ってきた。
 このホテルは貸切にしたためか、ロビーのフロントには誰もいず、照明もやや落とされている。
「あ、あのう……」
 美しい女教師は躊躇する。頭が禿げ上がった小太りの学年主任は酒臭い息を奈津に吐きかけるようにして、隣の椅子に座った。
(さ、酒臭い)
 清楚で可憐な美教師は泣きそうになった。25歳の若い女性にとり、中年の禿オヤジというだけでも最悪なのに、清川は、その風貌及びデリカシーのない性格からして敬遠したい相手であった。まして酒気まで帯びているのである。それに、もともと男性は苦手なのである。男性経験も社会人になる前に少しはあったが、それも何年も前のことであった。
「君ももうだいぶ教師という仕事に慣れてきたみたいだね。最初は、いつも不安げな目をしていて、大丈夫かなという気がしていたけど、ここまで成長してよかった」
 主任という地位についているせいか、清川は若い教師達に説教めいた話をするのが好きであった。話が必要以上に長く、ところどころ自分がその地方では名門とされる国公立大学の教育学部を卒業していることを自慢するのである。
「はあ。ありがとうございます」
 奈津は生返事をした。
「君もようやく教師らしくなったね。それに美人だしね」
 清川が酒臭い息を吐きながら、奈津の肩に手を置いてきた。目がぎらぎらしているように見えた。
(もしもこんな場面を生徒に見られたら……)
 奈津は教師としての自覚を取り戻した。
「清川先生。すみませんが、見回りの仕事がありますので、これで失礼します」
 彼女はすくっと立ち上がると、学年主任を残して、上への階段を歩き出した。

三.

 いったん部屋に戻ってから入浴を済ませた奈津は、軽装のジャージ姿に着替えると、先輩教師達に言いつけられた通りに、夜の見回りに出ることにした。
 時間はすでに九時半を回っていた。消灯時間まで間もない。生徒達はすでに和室に入っていて、廊下を出歩いているような者はいない。
 廊下はすでに明かりが落とされていて、生徒達のいる和室から漏れてくる光やテレビを見ながら談笑している声が聞こえてくる。
(さっと一回りして部屋に戻ればいいわよね……)
 若い女教師は退屈な見回りをすぐに切り上げて、次の日に行くことに決めていた場所をガイドブックで確認しなきゃと思っている。
(さてと、上の階を見たら、もう終わりだね)
 25歳の女は足早に階段を昇っていく。

「なんだかおかしいわね」
 若い教師は、和室の襖の奥から聞こえてくる音に気をとられた。今、足を踏み入れているのは女子部屋の区域である。
単に女の子たちが談笑したりしている雰囲気ではない。
 襖に近づいて耳を済ませてみた。
 女の子に似つかわしくない下品な笑い声。そして、ときどきすすり泣くような声。
(これは、おかしいわ……)
 若い女教師は確信した。これは普通の状態じゃない。何事が行っているのか確かめるのが自分の務めだと。
 彼女は襖に手をかけると、思い切って開けた。
「ああっ……。貴女たち、何をしているの」
 十人くらいのパジャマやジャージを着た生徒たちが一人の女の子を取り囲んでいる。いじめられっこの司まどかであった。哀れなまどかは下着姿にされて、震えていた。睫毛も震え、涙目になっている。
 部屋は十二畳ほどの大部屋である。擦り切れかけた畳。黒ずんでいる壁。安っぽい掛け軸がかかっていた。煙草の臭いも立ち込めている。
「なんだよ、おばさんは引っ込んでろよ」
「そうだよ、何しにきたんだよ」
 いじめっこたちが口々に罵りはじめた。工藤友里恵、島田史佳、赤石早紀をはじめ、学年の札付きの不良たちである。いずれの不良女も髪を黄色に近い程度にまで染めている。まるで野獣のような雰囲気を発している。
 禽獣たちの言葉に美教師はたじろぐ。しかし、奈津は聖職者なのである。逃げるわけには行かなかった。
「司さんに何をしていたの? 大勢で一人の子をいじめるなんて恥ずかしくないの?」
 奈津は教師のプライドにかけて、不良女たちを難詰した。
「うるせぇなあ……。いじめなんてやってないよ、遊んでいただけだよ」と友里恵が吠えた。にやにや笑いを浮かべていた。
「うそ。司さん、泣いてるじゃないの」
「知らねえよ、そんなこと。オナニーやらせて遊ぼうと思っていたんだから」
「オ、オナニー?何、言ってるのよ」
 若い女教師は不良女の言葉に茫然自失となった。
「いつも放課後にやらせているんだけどね。今日は、まどかのやつ、珍しく抵抗しているんだよね」
 友里恵が黄色い歯を見せてせせら笑った。

 

 
 

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